僕の夜

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その人は一瞬にして夢を見る。バスの中、揺られ、広告。広告。広告。危ないですから、停車するのを待ってお立ちください。献血はこちらで受付しています。オリンピック。テロ対策。不審物を発見した場合は速やかに下記までご連絡ください。粉粒体で満員の車両、そのわずかな隙間に忘れられたような黒い袋。3、2、1、閃光、熱いひかり、焼けた匂い、咄嗟に翳した鞄のビニールが溶けて垂れ下がる。偽物の血と火傷。死臭から服を引き剥がすと、そこにはシーツよりも白い体躯がある。内臓の接合面として残されたケロイド。彼はそこへ口づけ、彼女は何も感じない。闇に灯る、その肌。蠢く発光体。体液の音。静かな夜。外には雪が降っている。兎が跳ねる。足跡を辿って、私はひとりの画家に会う。未来を占ってくれませんか。22枚の白紙を渡す。画家は無言で受け取る。丁寧に行われる儀式。私は祈る。画家は描く。他人に決定された記憶。私はきっと待ちすぎたのだろうと思う。目の前のカードをめくることができない。血液が凍る。力を入れる。指が折れる。さらさらと落ちていた砂時計が堰き止められる。ホッパーの出口で、肉はやがて腐り、骨は朽ち果て、再び砂は落ちる。私は捕虜だ。ウロボロスの硝子のなかでは、永遠に雪が降る。ここは安定した世界の果て。カセットは巻き戻り続け、日は落ちず、飛行機は常に不時着する。地獄で会おう。君が思い出したくないことすべて、溶かして、冷やして、ここに閉じ込めてあげるよ。神経と交換だ。私はそのうち何も感じない容器になる。真皮で覆われた繭。爆弾。不発弾。洗浄して返した心臓で無防備に生きればいい。口触りの悪い科白ばかり吐かないで。永遠に縫い付けた瞼の奥の暗闇の手触りを教えて。刃物はあげない。ふたりしてここでじっと遊んでいよう。

3年後のきみへ

きみの声が、折りたたまれたことばをひらくこと、ヘッドフォンの暗闇にだけ本音があらわれることに、あまりにも忙しない季節のなかで、人はいつまでも気づけずにいる。

2千年後、とか、世界が変わるのってたぶんそのくらいで、3年。急展開とかあるわけないし、きみに期待なんてしていない。
ふがいない日常を何度も死ぬほど繰り返してもどこにも実感なんてなくて、確かなのは「いま」ここだけだってこと、その一瞬ずつの延長線上に奇跡があって、掴んだ、でも次の瞬間、きみの声はもう、そこにはない。
幻のような実感。その一瞬について。人は語るすべを知らないまま、いつかくる死にまきこまれて、眠る。朝がくればわたしは空っぽ、1秒、また1秒。なかったことにされてしまう。けどそんなの永遠にゆるせないから、ことばからこぼれてしまったものを、できるだけ、野生的に、すくいたい。鼓膜で光ることばのきらめきを、迷子にならないように縫い付けたノド、その傷口からながれる濁流が海へひらけるとき、かけがえのない実感を、きみの頰に告げたい。

祈りのような手紙しか、書けないね。それでもここに嘘はないから、2020年、虚栄のような街で、きみだけはほんとうでいてください。

 

草々

冬の蛹

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すごい悲しくなって泣いた。

大切な人が死んだこと。それでママとパパが喧嘩をすること。ずっと生活が続くこと。とまれないこと。みんなと見えているものが違うこと。それを表明できないこと。面倒で鵜呑みにしてしまう。閉じこもってしまう。ぜんぶ、違うのはわかっているはずなのに、抗えなくなる。

守るとはたたかうということです。たたかうのは、つらく、くるしいことです。なのに、戦争はいろんなものをもたらしてくれる。だから、想像力があるのでしょう、そのために虚構が、芸術が、文化が、歴史が、あったはずでしょう。たたかうのをやめてはいけない。やめたら死ぬ。それでも戦争はいけない、と思うのは、やっぱり悲しいからだけど、みんなにしあわせをくれるなら、じぶんのことなんてどうでもいい、わたしの上だけに爆弾が降り注げばいいと、ほんとうに心から思っています。

守るには強くなくちゃいけない。捨てるものなんてなにもないから、ぜんぶのがらんどうを抱えていきたい。羽を隠して、愛しい手付きで、知らないだれかの頬を撫でる。平然と出来てしまうね。ほんとうの願いは絶対に言わないくせに。震える手で、愛するひとにくべる花。いつだって重力に負けるから、眼鏡におちる涙を拭うことすら忘れてしまった。思い出させてほしい。童話で泣いたり、昔話の教訓をまっすぐに受けていたりした女の子。透明な血液は、あなたといっしょに蒸発してしまったのですね。星を見ることすらなくなりました。強くあらねばならないと、かわいい女の子は孵化することなく死にました。洋服に残ったあなたの匂い。洗濯機でなにもかも濾過されるから、分離してまた悲しい記憶すら消えてしまう。脳みそはいつも空洞。興味のない詩だって、3回読めばあたらしく覚えてしまう。もしあなたに災厄が降ってきたときは、冬眠するみたいに、目を閉じて、過ぎるのをじっと待てばいいよ。わたしは大丈夫。

眼前の景色なんて見ていない、わたしは眠ったように、溜息の出る記憶を反芻している。悲しいほうの溜息といっしょにわたしがなくから、そのぶんきみに、幸福な、うつくしい、透きとおった呼吸が生まれますように。

製氷皿をひねる

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 決定的な瞬間を見逃すな。あの子が、どんな顔でどんな声でどんな気持ちでどんなふうに。その一瞬のために冷え切った視界を準備し続けていて、それなのにあのか弱い肉体から発せられる匂い、顔は見えなくて、でも声で泣いているのがわかる。説得なんていう気の利いたものでもなく、演説なんて立派な主張でもない、たったひとつの、それでも膨大な感情で、魂をひっくり返したように、相手にひらいている。2人のあいだに流れる空気の密度、そこに至るまでの過程、あの子は何を話していたか、微塵も覚えていなくて、ただ思い出せるのは、5メートル先でひかった涙の、染み込んだその空間。たぶん最初は戸惑っていた。彼女は善人なので、揺れる、うまく出来ないとか、よくない胸のこごりみたいなものがだんだん満ち、結露していく、そのときの、かたいからだがきしむ音。ほんとうに言葉なんて信用ならないものだ。常に他人とはわかりあえない。そのあいだに言葉があるのだとして、自己の輪郭をこえて、時間をこえて、思想を及ぼすために言葉があるのだとしたら、一体なにが伝わるのだろう。これっぽっちも拾えていない。はみ出した響きがたくさんあって、説明を尽くしたところでこの純度の高さは失われる。私はなにを見ていたのだろうか。なにを聞いていたのだろうか。ただ、彼女が泣いて、そこに呑み込まれてしまった。そこにあの眼差しはもうない。なにしろ、なにも覚えていないのだ。どんな顔でどんな声でどんな気持ちでどんなふうに。どうやって辿り着いたのかすら、なにも思い出せない。ただ、いまここに生まれている激烈な場面から目が離せない。なにに心を奪われたのだろう。なにも見えていない、聞こえていない、感情も見えない、触れられていない、まったく関係がない、なのにこの胸にある激情は、一体なんだろうか。

水のような石

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追われている。音もなく、混雑するプールから逃げるようにして。寂れた温泉施設のような、その土産売り場で、100円ずつの物語を見ていたかっただけなのに。ひたすら逃げ、壁を越え、すべてが焼き払われる。みんな死ねばいいのに。そんなことは思っていなかった。ただただ遣る瀬無い。そうだ、とふと脳に過ぎった友人のこと。あの子がいるはずのビルへ。塔のように聳え立つ12階を見据えて走った。詩人のうつくしい言葉。石碑に反射する夜の街灯に目のふちを灼かれながら、胸元の青い石を握り締める。石碑が昇り始める。そのビルの屋上に辿り着きたい。あの子ならこの気持ちを分かってくれるだろうと思った。ぶら下がり、降りた。降りた先には猫の死骸。女が毒を撒いたのだという。再び石碑を眺めると声がし、会いたくない女の声が、だから逃げるようにその場を離れた。屋上に辿り着くことはできなかった。

皆既食

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この夜。この夜が心臓に立ちこめる愛しさを暴き出すこと、そのあとに、現実がひどくやさしく現れるこの夜に、温度なんて要らないものだろう。寂しいと思ったことなんて一度もなかった。なのに、胸のなかが空っぽで、この物足りなさは何なのだろう。苦しくて死にそうだ。死なんて考えたこともないくせに。主語のない思い。ウォークマンを付けたり消したりして、一曲の終わりが待てない。何にもそぐわない。これらの音楽が接続する記憶、微睡む、夜の闇。狂おしいほどに何かを求めている。この常なる欲情が、愛なのか、恋なのか、その正体がわからない。だから怖い。傷付いたことなんて一度もないのに、もう二度と、という気になって、いつまでたっても恋愛小説は好きになれない。
でも大事なことばがたくさんあるからフィクションに生かされてる。ずっと居場所なんてないと思ってた。今日だって人生がまるで手につかない。遠くのなにかを思うことがわたしのすべてで、ここにある肉体はひどく怠い、物語に蚕食された胸が痛くて、肺が痺れる。空白の時間はそれに気付いて、まともに喰らってしまうから、何かに傾倒していたい、と思う。何も考えたくないから、離れられないよ。どうしても。だんだん皮膚に閃きつつある冷や汗の感覚を忘れようとするみたいに虚構にのめり込んで、脳を溶かす。ずっと同じこと言ってるし思ってる、どうせこれもまた忘れるくせに。

雨宮まみが死んだ

雨宮まみが死んだ。べつにぜんぜん読んでも追っても見ても慕ってもいなかったのに、ときどきインターネットのどこかで彼女の文章と出会うたびに「雨宮まみ」という現象がじぶんのなかで確固たるものになっていくのがわかった。雨宮まみが死んだらしい。ぜんぜん知らないし会ったことも勿論ないけど。雨宮まみは死んだ。死んだところでこちらからの彼女にたいするアクセスの仕方なんて0.001ミリも変わらないのに。さよなら。iPhoneの向こうのひと。インターネットの僻地で見惚れた文字が脳裏に閃いて消えないままだ。