最適の日

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目の前のことだけを今を生きていればいいとは言うものの、生憎人間に生まれてきてしまったからには考えないわけにもいかず、気の重い用事は午後になると尚更重たくなるので午前中に済まそうとしたら駅で友人に会いました。生きるのつらいねーという挨拶を交わして、彼女はお仕事に、わたくしは来週の予定をつくりに行きました。そのあとは知人の喫茶店へ行っておすそ分けをもらう。真っ赤なトマトをのせて自転車で走る春の街中に、風景という概念を思い出せられ、わたしはこの赤いトマトがおいしいということを、ずっと前から知っているのだと思った。
桜に幾許かの期待を持ちつつも、見事にまったく裏切られたので、ずっと会いたかったひとに約束を取り付けた。存在しか知らなかった喫茶店へ行き、一緒にレモンスカッシュを飲んだ。それから池や公園を歩きまわる。日が暮れたら、肉を食らい、アニメを見て、星を眺めた。久しぶりに真上を向いて、自分の肺のでかさと空気を知る。いくらでも思いは染みつけることのできるものだったはずなのに、澄んだつめたさの星々はただそこにあり、ただきれいだった。触れられないからといって星がなくなるということもなく、わたしは星を信じているのだと思いました。震える内臓は寒さのためだけではなく、iPhoneの画面は眩しく、足りすぎてるじゃんと思いました。わたしの感覚が死んだぶん、何も考えなくてよくなり、すなわちこれは強くなれたもしくは大人になれたという退行であり進化でありかつて己の強固な哲学だったものは引き出しの奥の奥のそのまた奥にあることを確認した。思想に辿り着くまでに何億光年。1秒で手に入ったものが遠くへ行ってしまい、それはかなしくもありうれしくもある。どんどん捨てていかなければいけません。どうせわたしたちは死ぬのだし。だからわたしは死にたいけれど、隣で楽しそうにアニメのはなしをするこのひとは、情ばかり信頼していそうなのに生きるのが好きそうなところがいいなと思った。
帰ってきて過去のインターネットを見つつ、自分の発言に身に覚えがなさすぎるため、これはこれで他人のインターネットとして楽しく拝読する。思慮の谷のようなものが浅い今、なにもわからない。わたしはいつでも誰にでもなれる。