演劇的な都市で心地よく生活するっていうこと

f:id:n_azel:20160417000055j:image
灰色のホームに降り立って、遠くを思ってひたすら歩いた。地下鉄から流れる風が生温い。
三軒茶屋にて、演劇的な、きわめて演劇的な舞台を観る。出さないアンケートに詩情をドバドバ吐き出して、鞄にしまった。
お昼は300円で済ませる。路端に座り込んでもいいなら100円もかけたくはありません。というのは自分のことが嫌いなわけでは決してなく、だけど好きっていうわけでもなくて、これはいろんなコストを秤にかけた結果である。さいきんはこういうことがあるたびに民主主義のことをよく考える。わたしが誰かの不幸であるということ。選択をすればなにかが選択されなかったことになるので、選ばれなかった選択肢のために選択をしないという選択をします。これは保身です。
夜はものすごく血が流れるエロいアニメを見ながら電子レンジに入れられなかったつめたいコンビニ弁当を箸もなかったけどどうにか食らい、リキュールとチョコレートと煙草、音量が3のテレビから地震のニュースを垂れ流しながらLampを聴きながら、ずっと演劇のことを考えていた。ひとの身体。憎らしい肉体。記号に振り回されまくってアルコールに痛んだ身体が気持ちいいって思う。これ以上ない。これがわたしの生活だ。
ひとりを持て余して夜、外に出ればずっと明るくて暖かい。春は人の匂いがする。誰かを待つために温められるiPhone、手を繋いでいる恋人たちの接続点、犬が振り向く。わたしはきれいな路面に立って街を愛おしく思う。こんなにも雑踏がまっすぐにやさしいなんて。逃げ込む必要もなくなった。忙しいと今だけを見ていられていいですね。そんなことを考えてる暇もないけれど。