雨の中の庭

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初めて会った日もこんなふうに雨が降っていたと思う、書店の狭い通路、本にまみれてわたしたちはまた出会う。駅を出て、街の奥へと進んで、ジェラートを食べて、雨が晴れて、市場を歩いて、歌をうたって、その子は詩的でスノッブな恋をしている、スパークリングワインの泡のはじける感触を頬の内側に感じながら、甘い色のリップが彼女の柔らかい唇を濡らしていくのを眺めながら、そんなのはたまらなく幸福でどうしようもなくつらい恋だと思った。
わたしはたくさん好きなきもちを持っているけど、恋人らしい恋人はいたことがなくて、例えば鏡を見る回数の少なさとか、写真にうつる姿の醜さに驚いたり、結局まっさらになにも見えていないから、いつまでたってもラヴ・ソングのなかに立て籠もる。
何回目になるかわからない「あなたが男の子だったら」と「わたしだって」を繰り返して、今朝見た夢を思い出す。わたしにはペニスがあった。慾の抗えなさに自分を愛おしく思えて、そこから少しずつあたたかい気持ちが流れ込んでくるので自分のことを好きになれそうだった。香水をつけている男の子とすれ違うとき、自分を大切にできるひとの匂いだ、と思う。記号を武装した彼が言ったらしい「僕だって必死なんだ」、そのことばに込められた感覚にひどく身に覚えがあって慄いた。
わたしたちはカリウムにまみれた煙草を投げ込んで、淡いピンクの森に彷徨っていて、その森に吹く風は心地よくて、コンパスがないから帰れない。
ポーカーをしてるんだ、当事者のふりをして傍から演出しているんです、いちばんロマンチックなシーンはどんなだろう、この子あれが好きだったっけな、ときめくことばは。
この森のなかで囁いた音の粒子はすぐに樹々にのまれてしまい、空洞のからだは迷子、辛うじてまとまっていたじぶんが突風でビリビリに引き裂かれてそのツケは現実に流れ込むので、再び虚構へ逃走することとなる。恋情はなだらかにつながっているものだから、洞窟の暗さも地面のつめたさも感じてください、だけどあの森から出られないうちは酩酊しているからぼやけてしまう。どうすんのとわたしは訊ね、どうしようねと彼女はこたえた。「たすけて」、その声にうるうると満ちているうれしい感情に、幸あれ、と思い、タイムリミットは8月、夏が垂れ込めて思い出がゆがんでしまう頃、あの小説が幸福な溜息とともに閉じられたらいいなと思った。