谷底

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渋谷へ行くことはよくあるけど、どれも俯向くような記憶でうまく思い出せない。藤原新也の『渋谷』がわたしの手段で、駅では常に岐路に立たされる。落ち窪んだ谷間に駅があり、坂の頂上の向こうには何があるかわからない。谷底ではいつもだれかを待っていて、わたしはそれに気付かないふりをしている。周りを見回したくて仕方がないのに、わざと視界をぼやかして、じぶんのなかに閉じこもっている。坂を上って、街と彼と戦争のことを思って、また坂を下る。
東京に何度目かのさよならをして、窓の外を300km/hで通り過ぎるいくつもの街、下れば都会の明るさがだんだん弱くなり、車内灯の反射がはっきりとしてくる頃、わたしは詩の朗読を聴いていて、窓に映るじぶんの顔がすごくかわいそうだった。停車するたびに知らない街に降りたくなるのを我慢する。終点、溜息を吐きながらホームに降り立つと、夜風があたたかくて、夏かと思う。
改札を出て、帰ってくることにまだまだ慣れなくて、舌を噛む。すがるようなきもちで歩く駅の裏の夜を愛している。ぽつぽつと規則的に並ぶつめたい電灯とか、ぼんやりした鏡の窓、人間のいないきれいな都市。しずかで、涙が出る。愛してる。
家に着いて、明日や明後日や2週間後のことを考えていたらやっぱりどんどん泣けてきて、お風呂に入る前に鏡を見たら化粧がぜんぶなかった。姉にどうしたらいいのかなって泣きついて申し訳なかった。買った缶バッジもどっかに落っことしてきてしまったし、渇いた空洞のこころで、きょう観た演劇のこと、聴いた朗読のこと、思うと、剥き出しの感覚が落ちてきて、空きっ腹にアルコールみたいな感じ。嘘ばかりついて誤魔化して、いまこんなに泣いていてつらくても、時間が経つと郷愁みたいなものになり、懐かしさはすべてを愛に塗り替えるし、ほんとうに最悪だと思う。日記を書いたってぜんぜんほんとうのことを言ってない。例えばきのう言いたかったのは、寄席に入りたかったってことで、そこをわたしは夜の深い時間、朝の早い時間に、横目に見ながら通り過ぎることしかできなくて、みんながふらっと入れるはずの寄席にじぶんだけ入れなくて、ものすごくみじめなきもちになったっていうこと。生きてるだけで丸儲けなわけがないじゃん。たくさんのクソみたいな出来事を耐えてきて、夜の新宿で生活からあぶれたひとたちも、毎日仕事をして、ときどき遊んで、羽目を外して、またじぶんの人生に戻っていく。すれ違うひとたちがみんな、すごい遠くにいるように思える。わたしだけ違う世界線に生まれてきちゃったみたいな顔をしてさあ、わたしはずるいよね。怠けているだけ。もう月曜日なのに午前1時にiPhoneをまだ眺めていて、最悪だ。わたしもアイドルになって、わたしを愛してくれる知らない男に刺されたい。嶽本野ばらのシシリエンヌみたいに。この人にはわたししかいないのよ。