螺旋階段

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あなたは絶対にわたしのことを好きになる。わたしのほうを向いた男の子は、わたしの引力に忠実に、わたしにのめりこんでいくだろう。人に近づかない理由。それは、わたしがひとりでいられなくなること。砂鉄の入ったスライムみたいに、飲み込んでどんどんかたちを変えてしまうから。人間が記憶できるかぎり忘れることは出来ないけれど、縁なんていとも簡単に切れるから、近づきすぎたら振り払えばいいだけだ。会わない。逃げる。それだけ。傲慢でかなしいこと。人生で大きな割合を占めるだろう恋なんてものをきちんと味わえないこと。恋心めいたものはぜんぶ画面の向こう側で補填する。漸近線。ねじれの位置。右耳にたくさん開けたピアスみたいに、自分に楔を打ってきた。たくさん。祈るみたいに。絶対に交わることのない世界線にそれを置くことで、安心、平穏な生活を送ることができるので。どうして対等になれないんだろう。神とか恋人とか、そういうの。自分がいちばん大切なひとばかり好きだ。わたしをいちばんにしてしまうひとにはこころが膨らまない。きみのすべてが好き、顔も声も肌も中身も、もっときみのことを知りたい、きみの好きな色は、きみのポリシーは、きみの聴く音楽は。みんなそうやって自分のなかでわたしを大事に育てる。わたしはお人形じゃない。雑な言葉をつかって、変な洋服を着ても、わたしはただのかわいい女の子なんだね。わたしのなかにある女を見ている。だからわたしは演じるのだ。そつなく、スマートな身振りで。心の水深が深いから、瞳を濁すことなんて簡単だ。相手の手中には入らないやり方で裏切る、自分のアリな範囲で選びとってわがままに、見られていることを意識する。わかりきった迷路をつくる。牽制してばかりいるように見えてするする懐く。簡単な罠だ。ほんとうはまともに恋みたく、どきどきもぎくしゃくもしてみたいけど、そんなことは現実では起こりえない。というか、恋に夢見てるのはわたしのほうなのだけれど、純愛なんか信じてないから性が歪んでいく。セックスはするよりも眺めているほうがよっぽど気持ちいい。
定位置がないことは満たされないということ、それでも心地がいいのは、我慢の必要がないからだ。自由に生きていける。初めて会う名も知らない人間に打明け話をしてしまうみたいに、そのほうが楽でいいだろう。人を思うことはつらいことだ。だからふらふら彷徨って、どきどきがらくたみたいな言葉で話す。
わたしは昔から笑顔がステキねって言われるようなこどもで、向日葵の花を渡されてためらいもなく「似合うね」って言われるようなこどもだったんだよ。その屈託のなさに、わたしはよく考えてから「そうだね」と言う。光があればその自分にとってのかみさまみたいなものに吸い込まれるばっかりで、夜になればしんと俯向く。「そうだね」。その花はきっと、ふしだらに開いていて、あなたたちの差し出す黄色いきらきらの向日葵とは、ぜんぜん違うだろうけれど。