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たまらない小説を読み終え、喫茶店の階段を降りる。外に出るともう秋だった。お釣が100円足りなかったことには気付かないふりをした。帰路、住宅街はひっそりとして、どこかから金木犀の匂がする。自転車を降りて、肺を膨らましながらひどくゆっくり歩いた。鞄の底で光るiPhoneは多分くるりを流し続けている。
わたしはまともすぎるのでつまらない生活を続けて保身する。ここはすごく静かで、わたしは安全な場所にいる。目の前がすべての事実。甘美でも凄惨でもないただの事実。そんなことはわかっているけど網膜を半分絞ってあとの50%に立て籠もるのをやめられない。これだけ変えられない現実の摂理みたいなものに、フィクションは何を発信し続けてきたんだろう、いるんだろう。素晴らしいものは紛れもなく素晴らしい。それだけの事実。たぶんそういうことだ。
真っ直ぐに真っ当な正しさこそが正義だってことは誰だって知ってる。だけどそういう鋭さは現実の摂理には常に敗北するらしい。それでも人間は滑稽で悲しい生き物みたいなアレはどうやら事実のようなので、生きるにはあまりにもどうしようもなく、だからTSUTAYAは無くならない。いままで読んだ本たち、歌った言葉たち、内臓の深いところを傷つけたあとでひどくやさしく染み込んでくるような明朝体。こんなに最高があってたまるか。いくらでも思い出せるし、思い出すたびに胸が軋む。これはなんなのだろう。小説を2冊、漫画を7冊、アニメを5本、CDを3枚。それでもまだ腹は減っているので、消耗しきったはずの物欲にまた負ける。アマゾンドットシーオードットジェイピー、ご注文の確認。やめられない意味がわからない。どれだけなにかを吞み込もうと生活のどうしようもなさが消えるわけでもあるまいし。
こうして人間に戻れる夜や週末にいつもぼーっと遠くを見ているのはそこにわたしの待つものがあるような気がしてならないからです。確実にあるということしかわかっていないし、わたしの周りはなんだか落ち窪んでいて、ここには何もない。わたしはかわいい、なんで言葉でげんきを出せたらよかったのに。自分がうれしいことがわからない。きっと他でもないあなたがわたしを見てくれることだけが救いになる。救いと嬉しさは別な座標軸にあるということは知っているのに。遠くを凝視しすぎるあまり、あなたのことを考えすぎるあまり、あなたに出会えてもいないのに、あなたに会えた奇跡だけではすっかり足りなくなってしまった。脳内だけで進行する空想。近くに居るようでなんて遠いんだ。
夜が更けていく。濡れた髪でベッドに沈んで、また短い週末が終わる。窓を開けると、つめたい風が入ってくる。わたしのときめきはすごく遠くにある。たぶん、一生理解できないところに。