製氷皿をひねる

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 決定的な瞬間を見逃すな。あの子が、どんな顔でどんな声でどんな気持ちでどんなふうに。その一瞬のために冷え切った視界を準備し続けていて、それなのにあのか弱い肉体から発せられる匂い、顔は見えなくて、でも声で泣いているのがわかる。説得なんていう気の利いたものでもなく、演説なんて立派な主張でもない、たったひとつの、それでも膨大な感情で、魂をひっくり返したように、相手にひらいている。2人のあいだに流れる空気の密度、そこに至るまでの過程、あの子は何を話していたか、微塵も覚えていなくて、ただ思い出せるのは、5メートル先でひかった涙の、染み込んだその空間。たぶん最初は戸惑っていた。彼女は善人なので、揺れる、うまく出来ないとか、よくない胸のこごりみたいなものがだんだん満ち、結露していく、そのときの、かたいからだがきしむ音。ほんとうに言葉なんて信用ならないものだ。常に他人とはわかりあえない。そのあいだに言葉があるのだとして、自己の輪郭をこえて、時間をこえて、思想を及ぼすために言葉があるのだとしたら、一体なにが伝わるのだろう。これっぽっちも拾えていない。はみ出した響きがたくさんあって、説明を尽くしたところでこの純度の高さは失われる。私はなにを見ていたのだろうか。なにを聞いていたのだろうか。ただ、彼女が泣いて、そこに呑み込まれてしまった。そこにあの眼差しはもうない。なにしろ、なにも覚えていないのだ。どんな顔でどんな声でどんな気持ちでどんなふうに。どうやって辿り着いたのかすら、なにも思い出せない。ただ、いまここに生まれている激烈な場面から目が離せない。なにに心を奪われたのだろう。なにも見えていない、聞こえていない、感情も見えない、触れられていない、まったく関係がない、なのにこの胸にある激情は、一体なんだろうか。