夜とコンクリート

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酔いの醒めぬまま下着だけになって宛てのないメールを打っていると涙が出てきて、いつも逃してばかりでえらいことなんてひとつも言えないんだと思った。
もう眩い世界のことなど見てはいないです。諦めきって溜息吐いてばかりいたら、かっこいいとか、それは美徳じゃないとか言われました。すべては自分の都合。わかっています。わかっているんです。それでも愛しているし、憎んでいるんです。仕事ってなんだろう。生活ってなんだ。裏路地を行くキャバ嬢みたいに、吹っ切れたらよかったんだ、吹っ切れて女になれたら。この世でいちばんしあわせなことは、自分の好きなひとと一緒になることです。それはディズニー映画でも散々描かれてきたことだけれど、わたくしは恋愛ができない。ドキドキするのは疲れる。ただ自分の関係ないところで恋愛していてほしい。それを見ているからさ。自分のことなんてほんとうにどうでもよくなってしまった。こだわっていたはずの十代が消滅し、つまらない大人になる。歌謡曲にあるような人生だ。自由は怠惰ではない。それでも堕落しやすい。そういうことだ。みんな人間。労働は悪。肩書きって悪だから、許してほしいだけ。わたくしは態度がでかいので、恐縮してもおもしろくないじゃん、でも年下に親しげにされたらムカつきますよね、わかります、わかっているんです。こういうときだけ女でよかったって思う。ひどい人間だ。ひとりで生きたい。相対化しないと形成され得ない世界はめんどくさい。きれいになりすぎていて、わかりやすくしすぎることはうつくしくない。死ね。愛してる。夏の終わりの夜風を浴びて眠る。音楽なんてとうの昔に忘れてしまった。

アイビー

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ときどき春が訪れる。こころのなかに、それは決して晴れやかなものとしてではなく、桜が散るようなあの不安さを携えながら。iPhoneを点けては消し、点けては消し、溜息を吐いては窓の外を見る。繰り返し聴き続けた音楽を、また今日も眠る前に流して、のこりの10秒、その終わる頃に微睡みから浮上する。ひどくたよりない。忘却しきってまるで知らなかったみたいなこの春を、音楽は貪欲に覚えていて見事に奪還する。止してください、もう通り過ぎたんですから。諦めきったような溜息を吐いては、まだムッとしている。わたしは誰かではない、わたしは誰でもない。わたしでもなく。この容れ物のなかにあるのはなんだろう。乾電池の中身みたいなもんか。自分の輪郭は重く、柔らかく、醜い。排卵日はいつのまにか始まり、いつのまにか終わる。しかしかけがえのないものではないものは、大人になるにつれ、いつのまにか終わるということが出来なくなっていく。けじめをつけなさい。やっぱり死ぬことはいちばん楽かもしれません。不幸の代価としてのお金。だがこの春には何の価値もない。ただ、そこにあるだけ。春。春のことは愛しているけれど、ひとりでいい。なんとなく始まるために。終わるために。そうして多分もうすぐ冬が来て、またほんとうの春を思い出すことになるんだろう。さよなら。はじめまして。後ろに誰かいないものか。

夏の終わり

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長い長い夏休みが終わる。遮光カーテンで区切られた外では唐突な土砂降り、エアコンの効いた暗くてつめたい部屋でアニメを見ることの幸せを痛いほど感じている。いつくもの物語を通り抜けて、それでも物語のなかに取り残されなくなったのは大人になった証拠なんだろうか。アニメの登場人物が吐く台詞にいちいちグッときては赤線を引き、そのままにする。じゃあその赤線を引いた行為って何なんだ、別に復習するわけじゃあるまいし。ここんとこ、こういうことが増えた。これは消費することとは少し違います、ガンガン身体に負荷をかけることでアップデートするみたいな、気付いたら強くなってましたみたいなアレか?違うな、ぜんぜん違う。オタクは安心したがるので、不安を掻き消すという行為がここでの正解であり、なにも考えたくない。けど体力もない、エネルギーも使いたくない、となればパソコンの前に猫背でいるしかない、という思考回路に導き出された回答です。仕事?恋愛?はっはー、次の人生ではうまくやるんです、だから今はいい、今はこれが最高なんです、邪魔しないでください。アニメから大事なことを教わり、人差し指をバキバキに割れた液晶で切った血で要所要所に赤線を引き、教訓を得るだけ得ては放置し、のうのうと生きてる朴念仁。自棄になるげんきもなくて最悪なんですよねー、と右に笑うが日曜日の鬱に打ち勝てないのでヒーローにはなれません。ここが現実だということをいまだに信じ切れていない。水難事故とか、放射能とか、諸々、様々なニュースを見かけ、あーなんでこれが自分ではないんだろうって無駄な可能性から妄想を広げ、例えばオリンピック選手オア死体オアダイ、そしたら最初の選択肢を選ばなくなったということも大人になった証拠です。多分。ババアになってもこうして厭世的な目でほんとうに猫背になった自分がアニメを見続けているんだろうかとか考えてわけわかんなくなって再生ボタンを押して思考停止、その繰り返し。朝と夜だけ街へ出て、休日はパソコンの前にいたら夏がもう終わる。浅い溜息を何度も吐き続けて、いつのまにか蝉が鳴き止んで、夜が冷える。またサンダルを買い忘れ、割れたiPhoneを替えそびれ、大きな決断もし損ねた。毎年夏を溜め込んで今年も取り残されるんだろうな。エヴァ見たし。

螺旋階段

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あなたは絶対にわたしのことを好きになる。わたしのほうを向いた男の子は、わたしの引力に忠実に、わたしにのめりこんでいくだろう。人に近づかない理由。それは、わたしがひとりでいられなくなること。砂鉄の入ったスライムみたいに、飲み込んでどんどんかたちを変えてしまうから。人間が記憶できるかぎり忘れることは出来ないけれど、縁なんていとも簡単に切れるから、近づきすぎたら振り払えばいいだけだ。会わない。逃げる。それだけ。傲慢でかなしいこと。人生で大きな割合を占めるだろう恋なんてものをきちんと味わえないこと。恋心めいたものはぜんぶ画面の向こう側で補填する。漸近線。ねじれの位置。右耳にたくさん開けたピアスみたいに、自分に楔を打ってきた。たくさん。祈るみたいに。絶対に交わることのない世界線にそれを置くことで、安心、平穏な生活を送ることができるので。どうして対等になれないんだろう。神とか恋人とか、そういうの。自分がいちばん大切なひとばかり好きだ。わたしをいちばんにしてしまうひとにはこころが膨らまない。きみのすべてが好き、顔も声も肌も中身も、もっときみのことを知りたい、きみの好きな色は、きみのポリシーは、きみの聴く音楽は。みんなそうやって自分のなかでわたしを大事に育てる。わたしはお人形じゃない。雑な言葉をつかって、変な洋服を着ても、わたしはただのかわいい女の子なんだね。わたしのなかにある女を見ている。だからわたしは演じるのだ。そつなく、スマートな身振りで。心の水深が深いから、瞳を濁すことなんて簡単だ。相手の手中には入らないやり方で裏切る、自分のアリな範囲で選びとってわがままに、見られていることを意識する。わかりきった迷路をつくる。牽制してばかりいるように見えてするする懐く。簡単な罠だ。ほんとうはまともに恋みたく、どきどきもぎくしゃくもしてみたいけど、そんなことは現実では起こりえない。というか、恋に夢見てるのはわたしのほうなのだけれど、純愛なんか信じてないから性が歪んでいく。セックスはするよりも眺めているほうがよっぽど気持ちいい。
定位置がないことは満たされないということ、それでも心地がいいのは、我慢の必要がないからだ。自由に生きていける。初めて会う名も知らない人間に打明け話をしてしまうみたいに、そのほうが楽でいいだろう。人を思うことはつらいことだ。だからふらふら彷徨って、どきどきがらくたみたいな言葉で話す。
わたしは昔から笑顔がステキねって言われるようなこどもで、向日葵の花を渡されてためらいもなく「似合うね」って言われるようなこどもだったんだよ。その屈託のなさに、わたしはよく考えてから「そうだね」と言う。光があればその自分にとってのかみさまみたいなものに吸い込まれるばっかりで、夜になればしんと俯向く。「そうだね」。その花はきっと、ふしだらに開いていて、あなたたちの差し出す黄色いきらきらの向日葵とは、ぜんぜん違うだろうけれど。

不幸なこども

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日曜日、撮り溜めてたアニメをぜんぶ見る。アマゾンから届いた漫画をぜんぶ読む。少し前なら考えられなかった。アニメを見ることや、漫画を読むこと、1日でこんなに多くの、芸術、みたいなものを、吸い込むこと。10代の頃は映画一本で精一杯だった。デッキにDVDを入れるのにすごく覚悟が必要だった。なぜかその前に風呂に入ったりして、とにかく、特別なことだったのだ、なんらかのエンターテインメントみたいなものに触れることが。縛られて生きていて、無意識の習慣みたいなものに気付こうともしなかった。朝ごはんは抜いちゃいけないし、夜はお風呂に入る。学校は行かなきゃ死ぬし、帰りは遅くなっちゃいけない、平日にはイベントがあってはいけない。けど今は違う、大人になって、自由になった、はず、だよな、と思うけどやっぱり忘れる。断絶がひどいのですぐ平日とか休日とか言ってしまう。休日は人間に戻れる。朝は眠って、1食目からカップラーメンを開けて、アイスは1日に何度食べてもいい、夜はその日のうちに寝なくてもいい。生活をサボり、現実のことなんて1ミリも考えていないのに、堕落したほうが生きた心地がするのはどうしてだろう。平日は死にたくなることのほうが多い。10代の頃もつらかったけど、20代になってもつらい。懊悩の種類が変わって、全体量として減ることはあんまりない。ふと我に返って、「こわいよね」、よくそういうはなしになる。学生時代の友人と会って生々しいはなしをしたりする。学生に戻りたいなあ、っていうよりは今よりマシなところならどこでもいい。こんなふうに意志もなく週末を繰り返してたらいつのまにかババアになっててさあ、精神年齢が低いまま芸能人に恋してたりすんのかな、吐きそう。楽しいときは最高というよりもただIQが下がっているだけだし、つまんないときは死にたいというよりも生きている甲斐がない。これが下手すればあと60年くらい。遠すぎる。小説、漫画、アニメ、演劇、多くの物語を通り抜けるたびにそのぶん転生した気になって、そんなのは空想だ、わかってるよ、わかってるけどさ。あつい浴槽のなかで、無意識に漏れ出す鼻歌が、夢みるようなものだったとき、喉が凍えて、歌が止まって、かなしい顔になる。

したごころを、君に

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よく高校のことを思った夜だった。高校の風景。なんだったっけ。なんにも考えてなかったし服とか芸人のブログとかのことばっかり気にかけてたから大事な思い出ってあんまりない。せっかくの青春を、勿体無い、とか思わないところが薄情。その薄情さを反省する気もないし。なんだかずっと遠くを見て生きてきたなと思った。ヒーローになれるとでも思ってたんだろうか。大人になってから撮ったプリクラに落書きしながら(広義での)体力を失ったなーとしみじみ思う。こういうのにすら凝っていた。ノートの表紙とかリュックの色とかジャージの着方とか。年を経るごとにいろんなこだわりみたいなものもどんどんなくしていった。あの頃は文字の書き方ですらいろんなものに引っ張られていたような気がする。4の上を閉じるか。7のはじめを折り曲げるか。9はいつまでたっても大人っぽく書けなかったし。他人の文字の書き方を黒板の白い線で見るのが好きだった。人差し指に引っ掛けるようにしてチョークを流し刻む世界史の先生が好きだった。
きのうなんとなくレインちゃんのことを思い出していたところに当人から会おうと来たので突然の誘いでもすんなり行くよと言った。インターネットで再会してブログを読みあったりして彼女が斜陽読んだってところでたちまち太宰読みたくなってしまった。みたいなところまで書いて、こんなのは宛てているじゃんと思い、ラインできのう思い出してたよって伝えたのち5行くらい書いていた文章をカットした。
人生どうよ?というはなしをしても人生はどうにもならない。それなのに笑顔で深い溜息とともに撃沈しながら酒を飲む。わたしたちは異性だったら結婚してるよね、というセリフ。きみが男の子だったら、なんて何回も言われてきたけどほんとうはどっちがどっちでもいいんだよな。性別にがんじがらめになっているのは自分のほうだってわかりすぎるくらいわかっている。恋愛と結婚って違うのよね、ということはもうさんざん、なのにどうしてもそこに諦めがついていない、というか、好きなひとと結婚できたほうがやっぱりいいに決まっている。だけどそんなの疲れるだろうな、ということもわかっていて、どうして割り切れないんだろう。髪の毛を伸ばしてみてもいい、と思えた恋があったはずなんだけど、どれだったかすっかり忘れた。結局、お気に召すのは物語としての恋愛で、他人の恋愛を言語化することばかり上手くなり、すっかりそこの領域がこじれている。レインちゃんがここ10年くらいずっと好きなひといるよって言ってて、えーって驚いたように言ったけどそういやわたしもずっと誰かを好きだな。傾倒とかおたく的なはなしだけど。絶対に人生が交わらない対象ばかりだけど。でもそんなのはエヴァじゃん。好きなひとわたしで生きたいんじゃなくて、好きなひとになりたいんじゃん。憧憬で絶望で希望で諦観じゃねーかっていつでもここに辿り着いてしまう。神のきもちを思った。信仰されて嬉しいわけがない。では何故神は神になったのか。己を疑ったりしなかったのか。直感と理性がごちゃごちゃだったり肉体と思考がばらばらだったりしながらR.D.レインのはなしをしてまた変なきもちになり、自分のこういうところまだまだ錆び付いているんだなと思った。
何も考えず制服を着ていたあの頃と、死にそうな顔でスーツを着ている今と、一体なにが違うんだろう。考えるということ。思考を巡らすということをしなくなった。
外に出ると雨が止んでいた。天気予報をきちんと見たのに傘を忘れたのを思い出した。

扁桃

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疲れ切ってベッドの上でiPhoneをぼたぼた落としながらこれを書いている。それくらい愛しい夜だった。最高な友人たちと駅を終点に別れた帰り道、いくつもの言葉を思い出し、いくつもの言葉を忘却していった。数年前を覚えている意味はなんだろう。わたしにとってこの人たちには思い出が少なく、それでもその生身が目の前に立っているだけでぐっと喉がつまる思いがする。そういう人ばかり好きだ。思い出のない人間たち。居心地なんてそこに思い出がなくたって良いものだ。わたしたちは何時間も意味のない応酬を繰り返し、よくわからない名前のアルコールを飲みながら、歌ったり叩いたり黙ったり眠ったりして、魂をひっくり返さなくてもよくて、バカのようにただ一緒にいた。わたしは人間が仲良くしてるのを見るのが好きで、片目を瞑りつつバカのように煙草を吸って、あまり喋りもしないのに声を枯らして、それでも寂しかったことなんて一度もなかった。
ウォークマンの充電が切れた。またこの夜キリンジに鬱が溜まっていって、前にここを歩いた夜は息を白くしながらビートルズを聴いていた。途中で終わった続きを歌おうとしたら喉が渇いてうまく歌えなかった。音楽なんてぜんぜん好きじゃないのに常に胸にある。顔を上げると道端には紫陽花が咲いていて、椿屋四十奏を聴いていた時期を思い出して、自分が社会不適合者であることを思い出して、急に途方に暮れた。夏はここから始まって、きっと終わるまえにまた始まる日のことを考える。冷たい川風。雨になるまえの飛沫が肌にはりつく。痺れた皮膚がやさしくなっていく。
自分の孤独は清しくない。威勢がいいからなんでも大丈夫になる。切ったばかりのざりざりした髪の毛を触りながらいくつもの可能性のことを考える。いろんなきもちのことをたぶらかし、最低だと思う。最低だと思うのに、いくら振り向かれても背を向けたくなる、この満ち足りなさはなんだろうか。愛のことは抱きしめられるのに、愛に抱きしめられることに吐き気がし、いつまでもひとりでいたくなる。電気を点けないでほしい。深夜にすれ違った車が4台、自転車が2台、人が9人。誰かを待っている街灯、自動販売機。下水道を流れる汚水の音に安心させられてしまう。誰か、と思いながら、数少ない友人たちのことを思い、それらすべてが特別で、恋仲だと思う。手をつなぎたい。みんな幸せになればいいと思う。家に着けばきっと、3分待てなかったカップヌードルを最後まで飲み干しながら、みんなの未来のことを考えている。この帰り道の距離を歩いて、距離なんて概念を習ったこどもの頃に、こんな夜がいくつか訪れることなんて思いもしなかった。いつもは惰性で歩いている道を無視して斜めに自由に地面を選び取り、長く伸びる線路を跨がずにその上を歩いてみる。歩けば絶対に駅に着けるのに、ここからはどこへも行けない。いまが目の前にあるたったこれだけのことであることなんてもう知ってるのに、なにもリアルではない。実感が湧かないからどうでもいい。なんでも逃げられる。いつか終わる。そう思ってしまう。フィクションが正しい。フィクションみたいな本番が待っている。そう、ずっとなにかを待ってそのまま死ぬんだろうなーといつも思う。だけど歳を重ねるごとに諦められることも増えてきて、備えることをやめたら鞄はみるみる空になりました。それなのに、最悪だったぜんぶを許し、最高だったぜんぶを忘れたはずなのに、翌朝鞄の底に落ちている、飲み屋で貰った桃味の飴の包み紙はきちんと愛を知っていて、動悸の眠りのなかで口走ったことも、つめたい自分の指先のこともぜんぶ覚えている。報われない恋心ばかりが大切で、満たされることが恐ろしい。いつも足りないうつくしい余白をアイドルやアニメで埋めて、充分に生きている。チョコレートもピンクも指輪もいらない。首の細さを隠すために巻いた手拭いがまだ固い。