形而上学的・夜

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夜の公園でブランコを揺すりながら、遠くにバスを何本も見送って、帰りそびれた鞄のなかで無塩バターが溶けていく。適当なお酒を買い、適当に煙草をのんで、適当にブランコを漕ぐ。夜に放り投げるイメージ。汚れた靴、ときどき星が見える。地面と空を行き来するあいだ、からだがドレッシングの油を混ぜるみたいになって眩暈が全身に回っていく。止められなくてハイヒールの底が減る。

キリンジを歌いながらiPhoneを眺めていたら、ある文章がつめたいということが書かれており、その文章はわたしにとっては暑い、真夏が死んで冷める前の生暖かい夜風、渇いた路地に腐敗する果物の匂い、蒸せかえるようなそのなかに取り残された猥雑な暗がりみたいなものだけど、淡々冷淡、そのことを思えばつめたいとは言えるものの、あー、この人の体温は高いんだなー、と思った。

大人になってから、ずっとなにかを待っている。溜息みたいなことばを落としながらそのあとの世界のことを想像する。だからいとも簡単に物語に食われてしまう。わたくしは空洞なので、浸食するのはいとも容易いだろうな。煙草の匂いの染み付いた指先を鬱陶しく思い、自分のことすら鬱陶しいのに他人なんてなー、みんなにはみんなの生活がある、それでもときどき交差しなくてはならない幸福な他人のこと、どうにかしてかなくちゃなんないよ、会えないこともある、だからいちばんに辿り着いてくれたら一等賞です。

代々木の夏にあなたって太陽の塔好きですよねーと言われて返答を言い淀んだとき脳に何言ってんだ好きだろお前好きだろという声が聞こえて、好きっていうかー、いや好きです、みたいな歯切れのよくない反応しかできないのはわたしの恋が適当だからで、カテゴライズされることから逃走し続けているからで、いつまでも感覚に名前をあげないからぜんぶがふわふわしていてなんにも言えなくてほんとつまんないし、何回確かめても閾値閾値なのでもうダメだ、ベロニカは恋的に死ぬことにした。

貝の火

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春の破壊光線。相対的に地面の上に置かれる踵。風は鋭いのに体温は微睡んで、海から来た身体と出会う。
靴の修理をしたい。新生活はどう?服を買いたい。仕事辞めて海外行きたいんだよねー。何年後かのはなしをしながら、ごはんを食べる。こいつは自分の性に微塵の疑いも持っていないなーと思いながら、過去にくれた理解のこと、共通の友人のこと、行けなかった2月の浜辺のこと、外国のこと、貸してくれた映画のこと、それぞれがわたしのなかにきちんと立ち上がってくる。わたしはむかし、ひとりで生きているつもりでいた頃、君にひどいことをしたけど、まだ連絡をくれるのかと思って愛おしくなる。互いに不器用で、腹の底で持て余しているエネルギーをどうしたらいいかわからないので、ひたすらにことばが詰まっては、溢れるように満ちては引いて、さいごにやさしく笑って砂を吐き出す。
真新しいソファーに沈んで、英単語のはなしをしながら、ハンモックほしいねって言ったら手が届く値段だったので驚いてしまう。哀しいこどもはもうわたしのなかで死んだことになっており、相手に共感するたび素直になっていく。膨らんだ肌が塩水に浸かっている。欲はフィクションにまとわりついて散らかるので、もうこの際ぜんぶばらばらでいいこととする。わたしたちは互いに殻を纏ったまま、ゆるやかに出会い、ゆるやかに別れた。
帰ってからは半端にしてた村上龍を読み、昨日買ってきた古着のボタンをつけて、インターネットでまた本を買い、またひとつ安く生活を諦める。なんでも物語が解決してくれる。そうしてちっとも現実を生きてないからいまだに人生の本番がいつかわかっていない。だからへんな夢を見る。夢のほうがリアリティを持っていた時期のことを思い出して肌がひりつく。
5月の気圏に残る桜の花びらを捕まえながら、結局会えなかったひとたちが視線を交わすという確率について、いま現在という動く点Pのこと、その点に注ぐべき熱量のことを考え、それは多分いまもむかしも何ら変わらず、愛は買えたり買えなかったりするけれど、もうすぐあたたかい雨が降ったり、紫陽花が咲いたりすることを思えば、その1年後にもここが湿っていることを思えば、いますぐ鉛筆を置いてもいいような気がしてしまう
風呂上がり、小指の先に絆創膏を貼ってここがじぶんの一部であるのか不安になった。皮膚が汚れているとき、その下には穴が空いて、ひんやりとした呼吸をする。生き物が消えた草原は湿っていて、どこもかしこも濁っている。

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夢ならもっと近かった。生きるのがつらすぎて1週間のはじめから花見のことを考えていて、お酒は飲まないからラムネがいいなーとか思っていたら青い瓶のサイダーを買ってきてくれた。炭酸が唾液と泳ぐ。どこにも届かない手紙を想像する。
暗闇にぼうっとひかる桜の樹の下のハイヒールで歩く腐葉土に屍体はいないと思う。死者が行くところなんてありません、宇宙的には。
わたしたちは星を見ながらよく話す。月明かりに照らされながら砂漠のはなしをして、こちらとあちらの彼岸に道路の白線を辿る。まっすぐ歩けない。きちんと立てているか自信がない。気象衛星の視線に後ろめたくなる。あらゆる文字として大事な言葉を思い出しながら、ぼたぼた落ちる声は不随意だった。たよりがないのはつめたい肉体ばかりのこのからだで熱を持つたび遠ざかる影の立体交差する曖昧な曲線、わたしたちの似ている位相のちかく、ある座標にギラっと星が流れて、わたしの速度がその時空へ追いついたときのことを思った。フィラメントのあいだを音もない飛行機がすり抜ける。もらった煙草はすんなり肺に馴染んだ。
夜に会うたびに正確な落雷を待っている。家を通り過ぎて、ここはすごく寒い、街の灯りをひとつひとつ、そこにある幾千の生活、降り注ぐ名前のことを思い、なつかしい夜の半径を歩いた。夢のなかで空からこの光景を見たことがある。ような気がする。わたしのなかは空洞で、わたしは常に誰かの漸近線であると思う。街を遮れば星は見えるのにそうしなかった。ポケットのなかでも夜は手に入らなくて詩集はいつまでたっても見つからない。喉を猫でいっぱいにする。周波数を乱すのは暗くてやさしい音楽だけでいい。

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悪夢ばかり見て夜が明けた。朝もひたすら雑に暮らし、誰でもいいから会いたいとインターネットに書き、雨が降り、風が吹き、それから人と会い、演劇を観に行きました。
暗い暗い劇場から外へ出ると、それまでの嵐を引きずりながらも無理やり晴れましたみたいな天気になっていた。ざあっと通り過ぎる風に、なにか目に見えないものが通ったみたいに思えて振り向いてしまう。誰もいない、ただ黄色い陽の光が眩しくて目を細める。ひとりになると、ほんとうにひとりが寂しいものだとわかる。街中で、もう暗い顔もできなくなりました。新幹線の窓を飛んでく、いくつもの生活、それらひとつひとつを思うとたまらなくなる。そうしようと思えばいつでもできたはずなんです。でもしなかった。いろんな理由があって。いろんな理由が。
家に帰ってもまだひたすらきょう観た舞台のことを考えていた。片手間に夕飯を食べ、アニメを見て、風呂に入り、シャツにアイロンをかけているとき、ふと、生活のことを思い出して泣いちゃった。あしたは月曜日。そんなのたった2日の休日で忘れられるのに。時間は諦めを癒してしまう。日常は眠ったようにやさしくなっていく。いまわたしが、この街から出られなくて、まだまだ不安定で、決まった未来もなくて、誰かに会いたくて夜を歩き回るみたいなそんな日常はとうの昔に失っていたことに気付いた。電車の空席に座れない。目の前で鳴っている電話に出られない。わたしの不安はやさしさのかたちをしているが、それは自分のためであり、自己犠牲ではないのかも。本来のやさしさというのは勿論そんなものではないけれど。ほんとうに居場所がないから逃げてばかりいる。本屋にいるときがいちばんうれしい。

演劇的な都市で心地よく生活するっていうこと

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灰色のホームに降り立って、遠くを思ってひたすら歩いた。地下鉄から流れる風が生温い。
三軒茶屋にて、演劇的な、きわめて演劇的な舞台を観る。出さないアンケートに詩情をドバドバ吐き出して、鞄にしまった。
お昼は300円で済ませる。路端に座り込んでもいいなら100円もかけたくはありません。というのは自分のことが嫌いなわけでは決してなく、だけど好きっていうわけでもなくて、これはいろんなコストを秤にかけた結果である。さいきんはこういうことがあるたびに民主主義のことをよく考える。わたしが誰かの不幸であるということ。選択をすればなにかが選択されなかったことになるので、選ばれなかった選択肢のために選択をしないという選択をします。これは保身です。
夜はものすごく血が流れるエロいアニメを見ながら電子レンジに入れられなかったつめたいコンビニ弁当を箸もなかったけどどうにか食らい、リキュールとチョコレートと煙草、音量が3のテレビから地震のニュースを垂れ流しながらLampを聴きながら、ずっと演劇のことを考えていた。ひとの身体。憎らしい肉体。記号に振り回されまくってアルコールに痛んだ身体が気持ちいいって思う。これ以上ない。これがわたしの生活だ。
ひとりを持て余して夜、外に出ればずっと明るくて暖かい。春は人の匂いがする。誰かを待つために温められるiPhone、手を繋いでいる恋人たちの接続点、犬が振り向く。わたしはきれいな路面に立って街を愛おしく思う。こんなにも雑踏がまっすぐにやさしいなんて。逃げ込む必要もなくなった。忙しいと今だけを見ていられていいですね。そんなことを考えてる暇もないけれど。

グラン・ギニョールの恋人

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日曜の朝は既に月曜のことを考えて憂鬱で、起床後は明日のことを考える隙を与えないようにアニメを見まくってどうにか精神を保っている、わけでもなく、これは目を背けるという行為であるため罪悪感は増し増しで、どんどん泣けてきたところで助けが来た。ライチ光クラブを観ようという言葉を受信する。昼過ぎの映画を観てからは、変な時間に体に悪そうな大盛りのごはんを食べ、そういえば夜ごはんもまた同じようなメニューを食べて、そのときは自分がとても嫌そうな顔をしていたことがわかった。さておき、雑踏は気が紛れるから味方。耳から血を流し、変な服を着て、記号にまみれて時空に取り残され続ければ少なくともそのときだけはこわいものなんてなにもない。常に足りない/余る身体。中身がないことにずっと空腹を覚えています。生まれたときから。そんなの覚えていないけど。そんな空っぽな濁った3ヶ月目の水素のなかで昼下がりのジンジャエールやひと口だけ貰ったチョコミントのアイスをきれいだと思った。
うつくしいものが好きだ。人間は醜い。食事と排泄を繰り返し、慾には勝てず、老いて死んで腐る。だけど例えば愛する人の肉体は甘美でエロチックでなにもかもがうつくしい。食えるかもしれない。いやむしろ食いたいと思う。不自然にひかる瞳と赤い唇、ごめん、という言葉と静かに熱い行為。うつくしいと思ったら少し泣いちゃった。なんとなくデュシャンの泉を思いながら水と血と尿が混じって海になるまでを眺めていました。わたしは愛という感覚しか信じていない。愛という感覚だけを信じている。湿った聖書に火をつける。なにもかもが要らなくなったのに、簡単なことばかりしていたら欲しいものは手に入らない。

最適の日

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目の前のことだけを今を生きていればいいとは言うものの、生憎人間に生まれてきてしまったからには考えないわけにもいかず、気の重い用事は午後になると尚更重たくなるので午前中に済まそうとしたら駅で友人に会いました。生きるのつらいねーという挨拶を交わして、彼女はお仕事に、わたくしは来週の予定をつくりに行きました。そのあとは知人の喫茶店へ行っておすそ分けをもらう。真っ赤なトマトをのせて自転車で走る春の街中に、風景という概念を思い出せられ、わたしはこの赤いトマトがおいしいということを、ずっと前から知っているのだと思った。
桜に幾許かの期待を持ちつつも、見事にまったく裏切られたので、ずっと会いたかったひとに約束を取り付けた。存在しか知らなかった喫茶店へ行き、一緒にレモンスカッシュを飲んだ。それから池や公園を歩きまわる。日が暮れたら、肉を食らい、アニメを見て、星を眺めた。久しぶりに真上を向いて、自分の肺のでかさと空気を知る。いくらでも思いは染みつけることのできるものだったはずなのに、澄んだつめたさの星々はただそこにあり、ただきれいだった。触れられないからといって星がなくなるということもなく、わたしは星を信じているのだと思いました。震える内臓は寒さのためだけではなく、iPhoneの画面は眩しく、足りすぎてるじゃんと思いました。わたしの感覚が死んだぶん、何も考えなくてよくなり、すなわちこれは強くなれたもしくは大人になれたという退行であり進化でありかつて己の強固な哲学だったものは引き出しの奥の奥のそのまた奥にあることを確認した。思想に辿り着くまでに何億光年。1秒で手に入ったものが遠くへ行ってしまい、それはかなしくもありうれしくもある。どんどん捨てていかなければいけません。どうせわたしたちは死ぬのだし。だからわたしは死にたいけれど、隣で楽しそうにアニメのはなしをするこのひとは、情ばかり信頼していそうなのに生きるのが好きそうなところがいいなと思った。
帰ってきて過去のインターネットを見つつ、自分の発言に身に覚えがなさすぎるため、これはこれで他人のインターネットとして楽しく拝読する。思慮の谷のようなものが浅い今、なにもわからない。わたしはいつでも誰にでもなれる。